传媒教育网

 找回密码
 实名注册

QQ登录

只需一步,快速开始

搜索
传媒教育网 学术经纬 查看内容

清国新闻界的过去及现在

2019-2-24 15:50| 发布者: admin| 查看: 136| 评论: 0|原作者: 王津(王荫藩)|来自: 全媒体文案创意工作室

摘要: 原文链接:https://mp.weixin.qq.com/s/jRrVucvzfxQQiXYcBFqNwg

清國新聞界の過去及び現在

本編は実業の日清社長王津氏が特に本書の為に寄稿せられたるもの茲に記して謝意を表す

清國における新聞紙の濫觴は「北京邸抄」及び「轅門抄」と称せし官報にして専ら叙任辞令等官場の消息を登載したり而して北京邸抄は北京に於て中央政府の下に發行せられ轅門抄は各省に於て總督巡撫衙門の下に發行せられしが上述の如く専ら官場の記事に限りたれば一般公衆とは殆ど没交渉のものなりき換言すれば一種の職員録に過ぎざりしなり。

其後米人福開森及び席子佩等初めて一新聞社を上海に組織せり即ち今の申報にして吾が明治四年の創刊にかかり一萬四千號に達せり然れども創刊當時の申報は紙幅狭小にして普通書冊と異ならず萬般の規模も亦た之に準じ極めて幼稚なりしは勿論當時公衆も亦た新聞紙の必要を認めず販路を開くこと困難にして同社は資本の大部分を缺損したれば其維持策として出版業を兼営することとなり毎月稗史小説の類を發售し其利益を以て僅かに其収支を合せたる状況なりき。


日清戦役に際して新聞紙が戦報を傳ふること早く民間も亦た之に依て其消息を知るを得しかは新聞紙の必要も一般に認識されるに至れり「新聞報」「華文報」「商報」等の新聞紙が踵を接して上海に發行されしは洵に此時に在り明治卅一二年の交に至り梁啓超、汪康年等も亦た上海に於て「時務報」「昌言報」「中外日報」等を創立し清國の新聞界は漸く隆盛に赴きたり此時期に於ける新聞紙は重きを文學に置き文章の高下を以て新聞の優劣を定め文学研究の目的を以て新聞紙を購讀するが如き傾向あり隨て體裁は劣悪にして整はず記事も亦た頗る敏活を缺くの憾あり。

其後湖南人章士劉(釗)、直隷省人張繼、安徽省人陳仲甫、江西省人夏小石等日本に留學し日本の新聞紙に就て研究する所あり明治卅六年歸國して「國民日々新聞」を發行す體裁内容全く日本の新聞紙を模範とし頗る世上の耳目を一新せり是れ清國に於ける新聞發展の一轉機にして其主筆たりしは山西省人王津(現に日本に滞在し國際新聞協會會員たり)とす其論文と記事とは従来の新聞紙上に登載されしものと遙に其撰を異にし讀者の心胸を開拓すること尠少ならざりしが政府に反對し手厳しき攻撃の態度を取りしを以て忌諱に觸れ一箇年にして發行を禁止され王津以下の記者は半は日本に遁れ半は各省に散じたり。

日露両國が満洲に於て兵を交ゆるや清國の耳目は其戦報に集り新聞社の設立されるもの日に月に増加し現に全清國の日刊新聞紙の數一百二十餘を算するに至れり其重なるものは左に抄録すべし。

因みに北京中外通信社なるもの去る明治四十三年を以て設立せられ清國通信社の鼻祖を為せり右通信社を始め清國各新聞社の駐東特派員若くは通信員は續々渡来し其東京に在るもの現に二十三人を算する彼等相議して「留日記者公會」を麻布笄町八十番地に開設し王津を會長とし毎月二回集會し時事問題及び新聞通信事業に關する事項を研究してるあり。


















































































鲜花

握手

雷人

路过

鸡蛋

最新评论

掌上论坛|小黑屋|传媒教育网 ( 蜀ICP备16019560号-1

Copyright 2013 小马版权所有 All Rights Reserved.

Powered by Discuz! X3.2

© 2016-2022 Comsenz Inc.